2011年6月20日月曜日

耕すということ

 関西学院大学の上ヶ原キャンパスはいま、どこも緑にあふれている。木々は6月の光と雨を受けて、日々その緑を深くし、つやつやとした若葉を手に取れば、緑の絵の具がしたたり落ちそうだ。
 梅雨時の花もあちこちに咲いている。正門を入ってすぐ左、本部棟の庭には沙羅双樹の白い花。平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」というあの沙羅双樹である。
 少し歩いて新月池。いまは、半夏生が水の取り入れ口を覆い尽くすように茂っている。葉は緑だが、この季節になると葉の下半分が白く化粧したようになる。いまでは絶滅が危惧されているそうだが、そんな珍しい植物が何気なく見られるのも、上ヶ原の自然環境のすばらしさを物語っている。
 文学部の裏庭に回る。40数年前、文学部で学んだ私には、とりわけ懐かしい場所だ。バラ園は盛りを過ぎているが、代わっていまはドクダミが十文字の花をつけている。解毒などに効能がある薬草としても知られ、じめじめしたところを好んで繁殖する。手に取るといやなにおいがするが、その白い花は、清楚(せいそ)という言葉がぴったりだ。
 神学部の入り口付近にあるムクロジや栴檀(せんだん)の木も大きくなった。ムクロジは、冬になると球形の実がなり、中の硬い種子は羽子板の羽根に使われる。今年の冬、散歩の途中、ここで拾った実が数個、いまも机の上に鎮座しているが、その造形の妙は、いつ見てもほれぼれする。
 栴檀は、6月初めにあわあわとした薄紫の花をつける。「栴檀は双葉より芳し」という格言の通り、香りがよい。樗(おうち)ともいわれ、それは明治時代の思想家、高山樗牛の名に連なっている。
 キャンパスを散策していると、こんな風にいくつもの花や樹木との出会いがあり、その出会いから自分だけの物語が展開する。
 そこで、提案である。
 毎日、登校するたびに、その日に出会った花や樹木をテーマにして、特性のノートに物語を綴ってはどうだろう。それはどんな色だったのか。どんな風に咲いていたのか。その花や木を見て何を思い、何を考えたか。過去にその花や木を見たことはないか。見たとすれば、誰とどんな状況で見たのか。その頃の自分といま現在の自分との間の距離はどれほど開いているのか。そんなことを思いつくままに、綴っていくのである。
 まとまったことを書く必要はない。結論もいらない。走り書きでもいいから、ひたすら日記代わりに毎日書き続けていくのである。一つ一つは短い文章でも、毎日続けることで、自分は何が書きたかったのか、何に興味を持っているのか、どんなことに心が動かされたのか。そういうことが次第に見えてくるはずだ。
 そういう作業を毎日続けることで、自分と対話し、考えを掘り下げていく習慣を身につけていく。物事を受け止める感受性を養い、ものを考える力を鍛えていく。それが自分を耕すことであり、大学で学ぶということである。にもかかわらず、現状はそれがあまりにもおろそかにされているのではないか。
 長い間、学生諸君に接し、小論文の指導をしてきた立場からいえば、そういう感受性を養い、考える習慣を身につけることこそ、魅力的な小論文を書くための第一歩であり、ゴールでもある。
 よく書くことはよく考えること。よく考えることはよく見ること。よく見ることはよく書くこと。見るという言葉は、読むという言葉に置き換えてもよいだろう。自ら考える習慣を身につけるためには、まず身の回りを観察すること、読んだり見たりして、いっぱい知識を吸収することである。それを文章という形にすることで、考えもまた形あるものになってくる。
 自らの可能性を拓き、自ら耕すために、今日から行動を起こしてほしい。それが大学で学ぶための、最初の一歩である。(石)